娘の不登校
娘は、産まれたときから、なんだかよく分からないけど、自己完結している子でした。
「末っ子はそんなもの」なのかもしれません。
手がかからないような、かかるような。
元気なような、病弱なような。
いつもさりげなくいなくなり、好きなことをしてにこにこしていました。
3人の中で一番最後に不登校に・・・というか、小学生になったので不登校になることができました。どんなことがあったのかというと↓
- バイリンガル?
- おいしそうなアレルギー食なのに食べない
- エビぞりで怒り泣き
- 夜泣き三人
- はじめての託児、愛着問題を疑われそう
- 2歳の娘が言った捨て台詞
- 感触を楽しむ
- 山の幼稚園に親子で通う
- 娘の受診のきっかけ
- 小学校に入学、鉛筆かじりと抜毛
- 娘は登校渋りだけれど、生活は楽しめていた
- 子ども3人不登校
- 大人になった娘の様子
バイリンガル?
英語教育にはまっていたわたしは、赤ちゃんのときからバイリンガル目指し、英語のCDをきかせ、英語のビデオを見せていました。わたしの拙い英語で話しかけることもありました。
娘をだっこして道を歩いているとき、近くの木のあたりで鳥がチーチーって鳴いています。娘がはっきり"The bird is singing"って言ったんです。2歳前です。それからもときどき一人で英単語をちらちら言っていましたが、日本語は2語文をあまり言いません。普通に話しは通じていたので、言葉を使う必要がなかったのかも。それに、DVDやCDの音楽には集中するけれど、人の会話に注意が向いていなかったのかもしれないです。
これは、英語以前の問題だと感じ、意識して日本語でたくさん話しかけ、英語はあえて聞かせないようにすると、スゥーッと英語は消えていきました。
おいしそうなアレルギー食なのに食べない
小麦や米、農薬、添加物で湿疹が悪化するのですが、卵、乳製品、砂糖、油はどんどん食べてもだいじょうぶでした。
ケーキはアレルギー用の小麦粉を使って皆とほとんど同じものを作りました。アレルギー用の小麦粉は値が張るので、別に作っていたのです。
娘のために用意したケーキ、は見かけの大きさが違うだけで味も同じなのですが、顔をそむけて手をつけようとしないのです。
食事も同じで、代替食を作っても食べないのです。家計にひびきますが家族皆にとっても必要なので、できるところから皆で無農薬、無添加の食生活にしていきました。
エビぞりで怒り泣き
娘は、特に悪いことはしないのですが、泣き方がひどかった!
2歳になったころ、児童会館の親子遊びが終って帰るとき、寝転がったままおしりで地団駄踏むように怒っているのです。
全員帰ってもまだ怒り泣きしています。なだめようと渡すおもちゃは投げ飛ばし、声をかけてもだめです。「あー、またきたー」と私は思い、ボランティアの方は「そのうち収まるよと言います」。
こうなると30分は収まらないです。怒り泣きの30分はほんとに長いです。ボランティアの方はすーっと離れて行きました。
夜泣き三人
我が家の夜中は気の毒な状況でした。
夜驚症で走り回って叫んでいる長男。
夜泣きと夜尿症で、ほぼ毎日シーツ交換と着替えが必要な次男。
娘の夜泣きは反り方、暴れ方が激しく、抱いていられないので床に置くしかなくて。わたしはゴロゴロ転がって怒り泣きしているのを眺めて・・・いえ、見守っていました。
夫はわたしより、泣き声にすぐ気付き、夜中はいつも子どもを抱っこしてくれました。そういえば、けっこういいお父さんしていたんですね(笑)
はじめての託児、愛着問題を疑われそう
2歳ごろ、はじめて託児に預けたとき、1時間半ぐらいだったでしょうか、ずっと泣き、泣きつかれると寝て、目覚めては泣き、水も飲まずにいたそうです。迎えに行った私の顔をみたときは泣き叫ぶわけではなく、喜びもせずだまって睨むんです。
これ、ストレンジシチュエーション法では、愛着問題を疑われる反応です。個人的に、発達障害の子はこの方法にあてはめちゃいけないと思っています。
2歳の娘が言った捨て台詞
2歳3か月、娘は川崎病で入院することになりました。幼児の入院は、付き添いで一緒にお泊りするのが普通でしたが、夜中の兄たちの様子も気がかりで、夜だけ家に帰ることにしました。
入院初日の消灯前、娘に大好きなDVDを見せ看護師さんに目くばせしながらこっそり抜けました。翌日の朝、病院にいき、声をかけても、わたしを見ないんです。しばらく無視。
そのうち、低くつぶやくように「どうせ行くんでしょ」
ほんとに2歳???
意味わかっている???
言葉あまりしゃべらないのに、こういうことは言えちゃうの???
感触を楽しむ
遊びに行ったお宅で、全部脱いで中に敷いてあるベビーぶとんの中に入っていたのです。人の子が一糸まとわぬ姿で自分のうちのふとんに入るって、生理的に嫌ですよね。
どこに行ってもタオルや毛並のよいものにはすりよっていくし。
3~4歳ごろ、知らない人の家の呼び鈴を押し「遊ぼう」と大人を誘っていたらしいです。いきなりやってきたからと、娘の道案内で家まで送ってくれた方がいらっしゃいます。
なんて優しい方々に見守られ、許されて生活してきたことか。
ところでわたしは、何をしていたんでしょう。
ときどきは、いなくなった娘を探し回っていましたが。
いなくなっていたということは、見ていないってこと?
野放しにしていたのでしょうか・・・そこは記憶が抜けています。
あぶない子育てです。
山の幼稚園に親子で通う
頻繁に通った児童会館でも、集団の遊びに入ることはありませんでした。兄たちが集団行動でストレスを抱える様子を見ているので、無理に何かをさせようと思いませんでした。
この子なりの人間力が育つことを願って、山の幼稚園に通うことにしました。
お気に入りの遊びは、ドレスに着替えてお姫様になりきること。どろだんご作り。ひとりで楽しんでいるけれど、集団の中にフッと入っていくときもありました。人が大好きで、遠くから走っていきハグをします。たくさん可愛がってもらいました。
そのうち、次男の不登校が本格的になり、次男に合わせた生活をするため、近くの園に変わりました。
娘の受診のきっかけ
新しく行く園の一日体験をしました。この園長には、友人の紹介で園児の親ではないときに、長男の相談をしたことがあります。
園長が娘に会ったのは、この体験のときが初めてです。遊ぶ様子を見て、後日娘の受診を勧めてくれました。それで娘の診察のついでに次男も一緒に、長男の主治医の診察を受けることになりました。
(詳細は家族紹介)
小学校に入学、鉛筆かじりと抜毛
転園した幼稚園も、たくさんの外遊びを入れ、大事に関わってくれました。入学の引継ぎも丁寧にしてくださり、入学後も気にかけてくれました。
小学校での様子は、何がどうだったのかよくわからないです。いいも悪いも娘は何も言わないので。
わたしに分かっていたことは、鉛筆は全部かじった跡があり形が崩れていたこと。この時期、眉毛や腕の毛を抜いていたことです。
担任の先生は心配ないというんです。
「手をつないで一緒に行ったらグラウンドに行けました。途中から一人でみんなのところに行きました」とか。その日の様子をきいても会話にならなかったのです。
たぶん、わたしは神経質な母親と映っていました。あんな鉛筆とあの眉毛、心配しないほうが不思議だと思うのですが。
後で偶然分かったことですが、この担任の先生、どんな子も可愛がる温かい人柄で、楽しく勉強を教える技術を持った超一流の方だったのです。わたしと先生どうして噛み合わなかったのかな。
娘は登校渋りだけれど、生活は楽しめていた
朝家を出ても学校に着かないんです。途中で座りこんで虫を見たり、石で遊んだり。登校はわたしと一緒に行くようになりました。遅れていくことも増え、そうして行かなくなりました。
でも、近所の評判はすこぶるよくて。はじめて会ったおじいちゃん、おばあちゃんと元気にお話し、小さい子のブランコをずっと押しているなど、たくさんの人から可愛がられ感謝されていました。
子ども3人不登校
長男が小3のとき、学校での難しさについて教頭先生と話し合いました。「3人不登校になるよ」と言われました。
ものすごく悔しかったのです。何かできることがないかと頑張っている母親にそれはないだろうと。でもほんとにそうなりました。
大人になった娘の様子
娘の困りは中学生以降にでてきました。
今は、元気にフルタイムのようにアルバイトをしています。
料理が上手で、食欲もすごいんです。
部屋は、気もちが落ち着いてくるときれいになります。
わたしの元気がないと、どうしたの? ハグしてあげようか? と本気で言います。
夫の病気がわかってからは、ときどき夫にすり寄っていき手をさすっています。
優しいところと、説明なしで自分の嫌なことはしないってあたり、小さいころと変わっていないですね。
そのことに。いま気付きました。
自分の将来、もうすぐ模索できるんじゃないかなぁ・・・